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理解を代弁してはならぬ

  • 執筆者の写真: Shinwa Miyachi
    Shinwa Miyachi
  • 1月4日
  • 読了時間: 3分

わたしが教師として駆け出しのころ赴任した自治体では、必ず授業の型を叩き込まれた。

黒板の左上には、赤枠で囲った”課題”を書きましょう。

これは、生徒の疑問や予想の言葉から作られるのが望ましいですね。

黒板の右下には、青枠で囲った”まとめ”を書きましょう。

これも、授業の内容から生徒自身が言葉を書いたものが望ましいですね。

というような感じ。

黒板に描かれることは、教師の言葉でなく生徒の言葉が描かれることが大事なんだ!と

コンコンと叩き込んでいただいた記憶がある。


型の是非はともかく、生徒の言葉を大切に取り扱うというのは

本当に大事なんだなと今は身に沁みて思う。



小さい頃から言い換えや例えが得意だった。

人の話を聞くことが好きだったことも相まって、人の話をうんうんと聞いては

「それって、〇〇ってこと?」とか「⬜︎⬜︎みたいだね」と聞き返しやコメントをすると

相手が喜ぶことも多かった。


どうやら人というのは、その人が考えている思考を言葉にして伝えた時、

他者がそれを要約して納得のいく言葉に当てはめたり、

他者が理解を得た風に、その意味を何か別の文脈に転移させたりすると、

共感してもらえた、とか その結果心地いい、とか感じるのかもしれない。


そんな風に学生時代を過ごしていたので、

教師になってからもそのクセは続いた。しかし、

「それって、〇〇ってこと?」 「⬜︎⬜︎みたいだね」と言ってはみたものの

そういうニュアンスじゃないんだよね。と生徒に返されることが多々あった。


違うと言ってくれるならばまだしも、

微妙な顔をしたまま頷くしかないとみえる生徒の顔も思い浮かぶ。



理解というのは、非常に繊細で流動的で多面的だ。それを、

教師という立場でありながら安直に言い換えや例えをしてしまうことが

あまりにも多かったな。


駆け出しに叩き込まれた型は、

生徒の理解をなるべくそのままに大切に取り扱うことを

徹底させようとしていたのだと今は理解している。

その学習者の真の理解は、誰にも代弁できないのだから。


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言い換えや例えが得意だったとはいうものの、

言い換えや例えをしすぎた結果、学生時代は「知ったかぶり」の二つ名を

当時の同級生たちからもらった記憶がある。

そして今でもその傾向は強いと自負する。


今思えば、言い換えや例えが先行するのは

他者の事象を情報として受け取って抽象化しているため、

自分の事象が実体験として実を伴っていなかったのだなと。

さらに言えば、その言い換えや例えに当てはまるような事例を

自分でさらに集めることも必要だったかもしれない。

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