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教科書”を”教えるのではなく、教科書”で”教える。で、何を教える?

  • 執筆者の写真: Shinwa Miyachi
    Shinwa Miyachi
  • 3 日前
  • 読了時間: 6分

教師になるとよく耳にする、この言葉。

「教科書を教えるのではなく、教科書で教えましょう」


ずいぶんと長く、いろいろな場所で擦られてきた言葉なのだろうなと思います。 誰かのブログや、文部科学省の検討会議の議事録、あるいはかつての校長先生からの訓示など、私自身もあちこちで見聞きしてきました。そして今、私もこうしてキーボードを叩いています。


教師5年目を迎えたころの私も、すでにこの言葉に出会っていました。 当時勤めていた学校で聞いた記憶があるのですが、そのとき率直に思ったのは、


「やたら名言っぽく使われるけれど……で、具体的に何を教えればいいの?」

ということでした。


当時の私は、国際バカロレア(IB)教育はおろか、「概念?」「スキル?」「コンピテンシー?」「資質・能力?」「主体的・対話的で深い学び?」と、教育界で飛び交う言葉のほとんどすべてに「?」状態。 「何を教えるのか」に対する納得のいく解など、自分の中に持ち合わせているはずもありませんでした。

「教科書で教える」という言葉に、心の中で小さな違和感を抱きながらも、当時の私はただその言葉の脇を素通りすることしかできませんでした。



「教科書で教える」実践に感じた、小さなモヤモヤ

その後、私がよく目にしてきた「教科書で教える」実践の多くは、「教科書に載っていない、ユニークな類似例を取り入れた授業」でした。

その地域ならではの魅力的な素材、その先生の趣味や特技を活かしたアプローチ、あるいは研究授業のために、お金と時間と人脈をフル活用して用意された特別な仕掛け。 生徒の実態に寄り添い、先生方の並々ならぬ努力が詰まった素晴らしい実践ばかりでした。

しかし同時に、私は自分の中に芽生える、言葉にしがたいモヤモヤも感じていました。 その違和感をあえて一言で表現するなら、「用意した『面白いネタ(事象)』勝負になっていないかな?」ということでした。



「おもしろいコンテンツ」の罠

こうした授業では、提示する「事象」にものすごくこだわります。 いかに生徒を惹きつけるか、いかに驚かせるかが勝負どころ。準備にどれだけの時間と労力をかけたかが重要になります。

ご当地の特産品を取り寄せたり、休日に魚を釣ってきたり、オリジナルの実験装置を自作したり、はたまた自分の得意なプレーを実演して見せたり。教科書の外にある「おもしろいコンテンツ」作りに全力投球するのです。

結果として、授業研究会での見学者からのコメントも、 「おもしろいコンテンツでしたね!」「生徒がすごく興味を持っていました」「私も真似してみたいです」 といった、コンテンツ自体の感想で終始することが少なくありませんでした。



「教科書”で”教える = 教科書の内容を扱わない」という誤解

気づけば私自身も含め、多くの現場で「教科書で教える=教科書の内容をそのまま扱わないこと」という等式が成り立っていたように思います。 新しい工夫をしている自分に、どこか満足していた部分もありました。

しかし今振り返ると、その等式に満足していた授業は、肝心の「じゃあ、何を教えるのか?」がすっぽ抜けてしまっていたのではないか、と思うのです。

「何を教えるか」よりも、「教科書をそのままなぞらないこと」自体が目的化してしまっていたのかもしれません。 そして、「何を教えるか」が曖昧なままでも、それをカバーしてくれる便利な「魔法の言葉」がありました。

それが、「学習指導要領を根拠にしています」という言葉です。

その本音を少し意地悪に通訳するなら、「何を教えるかは指導要領にちゃんと書いてありますから、詳しくはそちらを読んでください。これ以上は突っ込まないでくださいね」という、当時の私の「思考停止の盾」になっていた気がします。



学習指導要領は「マニュアル」ではない

確かに、学習指導要領には「何を教えるのか」が書かれています。同時に、「子どもたちが何を理解することを目指して設計するのか」も示されています。 ただし、それらはあくまで大綱的な方針です。

だからこそ教師は、その「すきま」にある言葉を、自分で紡いでいく必要があります。 目の前の生徒たちの表情、地域のリアル、そして今まさに動いている社会の状況を踏まえながら、指導要領の文字の間を埋めていくのです。


なぜ、当時の私は「言葉を紡ぐこと」ができなかったのか?

これは当時の私自身の姿であり、少し耳が痛い話かもしれませんが、私が「何を教えるか」を見失い、言葉を紡げなかった原因を整理すると、次のようなボトルネックがあったと考えています。

  1. 学習指導要領をじっくり読む習慣が、そもそもなかった

  2. 読んだとしても、それを自分の授業にどう「読み解く」かの経験が圧倒的に足りなかった

  3. 読み解いた方針を、目の前の子どもたちに合わせた「具体的な言葉」にする方法が分からなかった

  4. 一人きりで指導案をつくっていた(同僚と対話しながら深める機会が少なかった)

  5. 知識や「内容を教え込むこと」から、マインドをシフトできていなかった

  6. 単元全体ではなく、「1時間の授業をどう成立させるか(1時間完結主義)」にとらわれていた


ざっと振り返るだけでも、これだけの要素が思い浮かびます。 誰かを批判したいわけではなく、これらはすべて、かつての私自身がハマっていた落とし穴そのものです。



一言で、あの頃の自分を(自戒と、少しの愛嬌を込めて)例えるなら

「高級で珍しい食材(おもしろい事象)さえ仕入れれば、どんな味付けでも三ツ星料理になると思い込んでいた、大ざっぱな料理人」でした。

「今日の食材(ネタ)は、現地直送のピチピチした魚だよ!」「この珍しいスパイス、面白いでしょ!」と、珍しい食材をお皿に並べることばかりに必死になっていたのです。

しかし、プロの料理人にとって本当に大切なのは、その食材を使って「どんな味付けをし、お客さま(子どもたち)にどんな栄養(資質・能力)を届けるか」という”レシピ(授業デザイン)”のはず。 食材の珍しさに頼るだけで、肝心の技(何を教えるか)がすっぽ抜けていた当時の私の料理は、その場でお腹は膨れても、子どもたちの血肉になるような本当の栄養を届けられていなかったのではないかと、少しへこみながらも振り返ります。



教科書は、入口として優秀な「基本の食材」

では、私たちはどうやって「食材(事象)勝負」から脱却し、子どもたちに必要な栄養を届けるレシピを紡いでいけばいいのでしょうか。

今、私がたどり着いた一つの答えは、教科書こそ、これまでの実践の蓄積から選び抜かれた優秀な基本食材であるということです。

教科書という、一見シンプルで、誰もが手に入れられる「基本の食材」をベースにしながら、目の前の子どもたちの実態に合わせて、

「何を理解することを意図するのか」 と、レシピを自らデザインしていくこと。 これこそが、教科書をただなぞるのではなく、教科書「で」教えるという本当の意味なのではないか、と体感しています。


ですので、近頃の私の授業はやたら教科書、資料集を使用しまくります。

むしろこの基本食材を使わない手はないとさえ思います。


納得のいくレシピはなかなか、作れません。

学習指導要領という、ちょっと分厚くて、しかも肝心な味付けの部分は「目の前の子どもに合わせて工夫してください」とぼかしてあるようなレシピ本を一人で読み解くのは、本当に骨が折れる作業です。

だからこそ、同僚の先生たちと「この食材、どう調理する?」とワイワイ相談しながら、少しずつ自分たちのレシピをアップデートしていく。その対話のプロセス自体が、私たち教師の”言葉を紡ぐ”感度を上げてくれるのではないかと考えます。

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