教師がつくろうとする”わかりやすさ”に対する疑念
- Shinwa Miyachi
- 3月25日
- 読了時間: 2分
私は安易に、”わかりやすさ”を子どもにあげてしまっていいんだろうか。
と、時々思う。
”わかる”は、個人のものだ。と同僚から聞いて、ものすごく腑に落ちた経験がある。
それを前提とすると、”わかりやすさ”も個人のもの。
”わかりやすい”を一教師がつくろうとすれば、それは個人である教師の”わかりやすさ”に紐づく。
30人の相手がいるとしたらば、なるべく30人に近い人たちが”わかりやすい”と言ってもらえるように授業をつくろうと努力していた時期がある。だが、30人になることはあり得ないように思う。理由は、至極単純。人それぞれに”わかりやすさ”のツボが違うから。
であるならば、果たしてこの努力は、教師である私の仕事なのだろうか?と疑念を抱く。
”わかりやすさ”が生むポジティブな側面は、子供が迷いにくい点だと感じる。
迷いにくければ、自信をもって進んでいくことができ、ひいては何らかの挑戦を促すことにつながるやもしれない。
逆にネガティブな側面は、子供がその意味を問いにくい点ではないかと思う。
わかりやすい!と感じられれば、疑念をもつ余地が生まれず、その情報自体を批判的に考える機会を失いやすいのではないか。
スプーンフェッドという言葉を聞いたことがある。
子供が食べやすいように、細かく分けた食材をスプーンに乗せ、口まで運んでいく様に、
”甘やかし”という意味を付与している。
スプーンフェッドをすることで、学習者から奪うもの。
それは、声、選択、疑念、思考の余地、主体性、当事者意識、今ここにいる意味、今得ている情報の意味、世界を知りたいという意欲などなど・・・。
情報を丁寧に与えながら、学習者からこれらを奪っているかもしれないと思うと、僕は情報を丁寧に与えることに時間をつかうことを、どうしても避けたくなってしまう。
(もちろん、学習者自らが情報を得たいと求めるならば、情報を丁寧に与えられるだけの教師自身の準備は必要だと思う。)
それよりも、学習者が自身の”わかった”ことをどう表現するのか。それにどんなフィードバックを返すのか。彼らの様子をみて、次の授業はどのように展開するのか。といったことを考えていた方が有益なように感じているのだが・・・。どんなもんだろな。




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